特集5 新撰組の足跡を訪ねて・・・・  「角屋もてなしの文化美術館」に行ってきました!
その前に・・・これ知ってる?!島原「角屋(すみや)」予備知識
島原の花街(遊宴の町)は、豊臣秀吉が京都を再興するにあたり二条柳馬場に開かれ、その後、六条柳町に移され、六条三筋町として栄えました。その後、現在の島原の地に移され西新屋敷と呼ばれましたが、その急な移転騒動が九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて「島原」と呼ばれるようになりました。
その島原には、昔から「揚屋
※1(あげや)」と「置屋(おきや)」があり、「角屋(すみや)」は、伝統ある揚屋の一つで、新選組の近藤勇や芹沢鴨などもよく訪れていたそうです。
「角屋(すみや)」は、当時の揚屋建築の唯一の遺構を伝えるものとして、昭和二十七年、国の重要文化財に指定され、その江戸時代の饗宴の場を今に伝えています。
※1 揚屋(あげや)とは、太夫※2 や芸妓をおいていない家で「置屋」から太夫や芸妓を呼んで遊宴を行ったところ
    で、今でいう料亭・料理屋にあたります。江戸時代の書物の中で、客を「饗す※3(もてなす)を業とする也」と
    定義されています。

※2 太夫(たゆう)とは、島原の遊女の最高位とされ、その名称は慶長年間、四条河原で六条三筋町の遊女が
    女歌舞伎を催したとき、すぐれた遊女を「太夫(たゆう)」と呼んだことからはじまるとされています。「太夫
    (たゆう)」は単に美しいだけでなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踊・文学などあらゆる教養を身に付けていました。

※3 饗す(もてなす)といえば、角屋では、いつどういう方がどのお座敷で宴会され、その時の掛け軸や生けて
    あったお花などまで記録に残し、同じものがダブらないようにしていたそうです。また、すぐにお料理が出て
    きて宴会がはじまるのではなく、庭の景色を眺めたり、俳諧和歌を詠んだり、お茶室でお茶をたしなむという
    時間を過ごし、その後、お座敷で太夫や芸妓さんたちの歌や踊りを楽しみ、宴会がはじまったそうです。
 
さて!準備もできたところで、早速私たちと一緒に「角屋もてなしの文化美術館」へ行ってみましょう!
 <玄関>
着きました!「角屋もてなしの文化美術館」。
昔の面影を残す、正面玄関です。
樹齢200年の2本の「槐(えんじゅ)の木」。
中国の縁起の良い木といわれ、今もなお生きています。
お客様の刀をしまっておく「刀箪笥」です。座敷にはいる為には帯刀を解くのが習わしだったんですね。今で言う「ロッカー」です。
新選組が角屋出入り禁止になった時に、暴れて付けたと言われる刀痕です。宴席がかち合わないようにするなど配慮していた為、幕末の動乱期でも、角屋では流血の惨事はなかったそうです。
 <台所>
台所の神様、三宝荒神です。仏・法・僧の三宝の守護神であるとともに、かまどの神とも言われています。
台所のかまどです。大小様々なかまどで、たくさんのもてなしの料理が作られていたんですね〜
台所の明かりを灯す八方あんどんです。忙しい台所を効率よく照らす、吊りタイプのあんどんです。直径1メーター位の大きさでした。
 
 <こんなものも>
西郷隆盛がよく行水していたといわれる桶です。
角屋立退きの話が出たときに、この桶のお陰で立退きの話がなくなったそうです。
 
 
 <角屋二番目に広いお座敷「網代(あじろ)の間」>
網代の間の天井です。天井を網代組にしているところから「網代(あじろ)の間」といいます。魚をとるしかけ「網代」の模様になっています。
こんなところにも工夫が!
なんと網の形をしています。これは一枚の板をくりぬいて作られているというから凄いです。
 <角屋一番広いお座敷「松の間」>
お座敷に面した庭園に立派な臥龍松(がりょうのまつ)があることから「松の間」といいます。
芹沢鴨が暗殺される3時間前まで宴会をして座っていた場所だそうです。鴨はかなりの酒豪で、お酒を飲んでは暴れていたそうです。そこで近藤一派は暗殺を計画し、宴席でお酒を飲ませ、壬生の屯所で寝ているところを襲って斬殺しました。
「角屋もてなしの文化美術館」いかがでしたか?次回もお楽しみに!
「角屋もてなしの文化美術館」
開館時間:午前10時〜午後4時
休館:月曜日(祝日の場合は翌日)
入場料:一般(大学生含む)1000円/中・高校生800円/小学生 500円
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